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zoom RSS 日本の夜明け!

<<   作成日時 : 2014/08/30 17:45  

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明治維新 それは日本人にとっては忘れられない時代だろう。

薩摩・長州・土佐・越前らの力が強くなり、次第に反幕府体制として起きたものである。

黒船来航日本中に噂が走り、町民たちは黒船を見て恐ろしいと思い。
これからの先は読めない時代と思いつつ、日本国中が針のつついた噂で一拝、大きな噂があちらこちらで一拝になってしまった。

それに前から九州でお金を貿易で稼ぎ、外国から ストロング大砲、爆薬、ガトリング砲
など持った薩摩・長州・土佐・越前らはこの噂こそとチャンと思い豊富な武器・弾薬で都まで徳川幕府を追い詰めてきた。

大名が商人にお金で操られていた時代で、もう武士の時代も終わりに近いころです。
でも、薩摩・長州らは外国人に商売で儲け、武器・弾薬・宝石を貰っていました。

また、開国論者は都では町民相手に「新しい日本」を説いてまわり勇気と希望を持たせていました。
江戸幕府は力が無く昔の時代とは違って、金融・武器も連合軍におとり、次第に追い詰められた。
なぜ薩摩・長州・土佐・越前らは力があったか、幕府は力が無く、これら藩主よく調べる事が出来なかったのではないだろうか?

江戸幕府はおよそ300年近く鎖国したため最後には商人にお金を借りていた当時の江戸幕府であった。
「武士は食わねど高楊枝」という語り草がありました。
武士をお払い箱になって、浪人となりご飯が食べられなくなった一種の語り言葉です。


徳川幕府の終わりに近かった、その時代です。


以下インターネットで調べました、大変面白いです。最後まで読んでください。



明治維新は、黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的進出に対する抵抗運動(攘夷運動)に薩摩・長州・土佐・越前らの力が強くなり、次第に反幕府体制として起きたものである。アヘン戦争以後、東アジアで欧米による帝国主義の波が強まるとともに。江戸幕府は、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を選択したため、攘夷運動は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として広く展開されることとなった。


一方、開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる雄藩を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため。尊王攘夷運動は、薩英戦争や下関戦争などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識された、観念的な攘夷論を克服し、国内統一・体制改革(近代化)を優先して、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった長州藩も開国論へと転向していくことになった。


幕府は、公武合体政策のもと朝廷の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を志向したため、次第に雄藩らの離反を招いた。また、黒船来航以来の威信の凋落もあって国内の統合力を著しく低下させ、幕末は農民一揆が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する土佐藩・越前藩らの主張(公議政体論)や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、幕府を廃し、朝廷のもとに権力を一元化する国内改革構想が現れてくることとなる。また、それは旧弊な朝廷の抜本的な改革を伴う必要があった。結果として、この両者の協力により王政復古が行われ、戊辰戦争による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立した新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。



開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日1868年)となる。しかし一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(維新体制が整う以前の政治状況については幕末の項で扱うものとする)。終了時期についても、廃藩置県の断行(明治4年、1872年)、西南戦争の終結(明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。
この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権[1])を特に明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)などと呼称することが多い。「藩閥政府」と揶揄されることもあるが、中級官僚以上でも旧親藩・旧幕臣などから採用された者も少なくなく、一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を指して御一新と呼ばれていた。




その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から捨てるように説かれている。
これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。

首都については、当初京都では旧弊(京都の歴史上のしがらみ)が多いとして、大阪遷都論が大久保利通を中心として唱えられた。しかし、大阪遷都論には反対が多く、江戸城明け渡しもあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→東京奠都の項目を参照)。遷都についての正式な布告があったわけではなく、明治天皇の2度の東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。


また、立法府に関しては木戸孝允らが明治初年から議会開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、大久保利通を中心に「有司専制」と呼ばれる薩長藩閥による官僚を中心とした改革体制が維持された。しかし、自由民権運動の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟などもあり、明治14年(1881年)に「国会開設の詔」が出され、同時に議会制度の前提として伊藤博文らによる憲法制定の動きが本格化し、憲法審議のため枢密院が設置された。明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が公布、翌年帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制国家が完成した[6]。

まず、明治2年1月20日に薩摩・長州・土佐・肥前の藩主らが、版籍奉還の上表文を新政府に提出した。これに各藩の藩主たちが続き、6月に返上申請が一段落むかえると、全藩に版籍奉還を命じた。この版籍奉還により旧藩主たちが自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。
なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、明治12年(1879年)に沖縄県として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に琉球処分と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。(→沖縄県の歴史)

留守政府が行った主な改革としては、学制改革、地租改正、徴兵令、グレゴリオ暦の採用、司法制度の整備、断髪令などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の征韓論につながったとも言われる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が明治六年政変によって征韓論を退け、さらに大久保の下に内務省が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。ただし留守政府の行った改革のほとんどは政変後も存続し、明治維新の根幹の政策となっていった。



1930年代の海軍省
徴兵令を導入し、近代的な常備軍を最初に作ろうとしたのは大村益次郎であったが、彼が暗殺されてしまったため、山縣有朋に引き継がれた。明治3年、徴兵規則がつくられ、翌年の明治4年に廃藩により兵部省が全国の軍事力を握ることとなり、明治5年には徴兵令が施行され、陸軍省と海軍省が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。


江戸幕府下の武士・百姓・町人(いわゆる士農工商)の別を廃止し、「四民平等」を謳った。しかし、明治4年に制定された戸籍法に基づき翌年に編纂された壬申戸籍では、旧武士階級を士族、それ以外を平民とし、旧公家・大名や一部僧侶などを新たに華族として特権的階級とすると同時に、宮内省の支配の下に置くことになった。
華族と士族には政府から家禄が与えられ、明治9年の秩禄処分まで支給された。同年、廃刀令が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱(佐賀の乱、萩の乱、秋月の乱、神風連の乱)につながる。しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、1877年に維新の元勲の一人である西郷隆盛が率いた最大の士族反乱であった西南戦争が鎮圧されると、士族による反乱は後を絶った。




維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの年貢は収量を基本とする物納が基本であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。1871年には田畑永代売買禁止令が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに1874年に地租改正条例が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に地券が発行されることとなって、所有する土地に対し地租が課せられることとなった。これにより、土地の所有権がはじめて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有財産権が完全に確立することで資本主義の発展の基礎条件が成立した。
富国強兵・殖産興業のスローガンの下、工部省(のちに内務省)が中心となり、政府主導の産業育成が始まる。富岡製糸場をはじめとする官営模範工場が作られるなど、西洋式工業技術が導入された。しかし西南戦争後の財政難のため、1880年には「官営工場払下概則」が制定され、造幣局や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられていった。これによって民間の工業は大きく発展することとなり、1890年ごろから産業革命が進行し、工業化が進展していくこととなった。


金融制度でも旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「円」を導入(明治4年(1871年)。新貨条例を参照)、また国立銀行条例による国立銀行(ナショナルバンク)を経て、通貨発行権を独占する中央銀行としての日本銀行設立(明治15年、1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行われた。
流通分野では、1871年には前島密によって郵便制度が創設され、1872年には新橋駅から横浜駅間において日本初の鉄道が開通し、電信網の整備や船舶運輸(民間の郵便汽船三菱会社と国策会社の共同運輸会社の競合を経て日本郵船会社)などの整備も行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た華族の資産による投資活動も背景にあった。


幕末から活発になっていた佐久間象山などの「倫理を中核とする実学」から「物理を中核とする実学」への転回が行われ[8]、横井小楠の実学から物理を中核とする福澤諭吉の文明論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、文明開化の動きが加速する。
明治新政府は国民生活と思想の近代化もすすめ、具体的には、福澤諭吉・森有礼・西周・西村茂樹・加藤弘之らによる明六社の結成と『明六雑誌』、福沢諭吉の『学問のすすめ』や中村正直の『西国立志編』『自由之理』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また土佐藩の自由民権運動の動きと連動して中江兆民や植木枝盛、馬場辰猪といった革新的な勢力と、佐々木高行、元田永孚、井上毅、品川弥二郎といった官吏の保守的な勢力との対立が鮮明になってきた。


教育機関の整備では始めは大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操・平田鐵胤・矢野玄道・渡辺重石丸らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の蘭学塾や漢学塾、それに幕府自身がつくつた洋学教育機関である開成所や蕃書調所が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。
維新まで松前藩による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、1869年にはそれまでの蝦夷地から北海道と改名し、同年開拓使が置かれて、積極的な開発が進められた。北海道の札幌農学校や、三田育種所など、各種の学校や研究所があいついで設置された。このように、ありとあらゆるインフラが整備されていった。


https://www.youtube.com/watch?v=dFqcqscdFNs





『五箇条ノ御誓文』(明治元年または慶応4年3月1

(八神注:以上は「国是誓約ノ御祭文」と呼ばれる前文。原文は漢文)

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシ盛ニ経綸一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

我国未曾有ノ変革ヲ為サントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ニ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ

----------------------------------

<読みくだし文>(1868年3月14日)

掛巻(かけまく)も畏(かし)こき天神地祇(あまつかみくにつかみ)の大前(おおまえ)に、今年三月十四日を生日(いくひ)の足日(たるひ)と撰定(えらびさだ)めて、禰宜(ねぎ)申さく。今より天津神の御言寄(おんことよさ)しの随(まにま)に、天下(あめがした)の大政(おおきまつりごと)を執行(とりおこな)わんとして、親王(みこたち)卿臣(まえつぎみたち)国々(みくにみくにの)諸侯(みこともちども)・百僚官人(つかさつかさのひとども)を引居連(ひきいつらね)て此(この)神床(かむどこ)の大前に、誓(うけ)ひ奉(まつ)らくは、近き頃(ころお)い邪者(よこしまなるもの)の是所彼所(ここあすこ)に荒び武(うと)びて、天下さやぎにさやぎ人の心も平穏ならず。この故にもって天下の諸人等(もろびとども)の力を合せ、心を一つにして、皇(すめ)らが政(まつりごと)を輔翼(あなない)奉(まつ)り、仕奉(つかえまつ)らせ給へと請祈(のみ)申す。礼代(いやじろ)は横山の如く置(おき)高成(たかなり)て奉る状(さま)を聞食(きこしめし)て、天下(あめがした)の万民(よろずみたみ)を治給(おさめたま)い、育(ひたし)給い、谷蟇(たにぐく)の狭渡(さわたる)る極み、白雲の墜居(おちい)向伏(むかふす)限り、逆敵対(まつろわぬ)者あらしめ給わず、遠祖尊(とおつみおやのみこと)の恩頼(みたまのふゆ)を蒙(かがふ)りて、無窮(とこしえ)に仕奉(つかえまつ)る人共の今日の誓約(うけい)に違(たが)わむ者は、天神地祇(あまつかみくにつかみ)の倏忽(たちまち)に刑罰(つみない)給わむ物ぞと、皇神等(すめがみたち)の前に誓(ちかい)の吉詞(よごと)申(もうし)給わくと白(まお)す 一 、広く会議を興(おこ)し万機公論に決すべし 一、上下心を一にし、盛(さかん)に経綸を行うべし 一 、官武一途、庶民に至る迄(まで)、各(おのおの)其(その)志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめん事を要す 一 、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし 一 、智識を世界に求め、大(おおい)に皇基を振起すべし 我が国、未曾有(みぞう)の変革を為さんとし、朕(ちん)躬(み)を以って衆に先んじ、天地神明に誓い、大(おおい)に斯(この)国是(こくぜ)を定め、万民保全の道に立たんとす。衆また此(この)旨趣(ししゅ)に基(もとづ)き、協心努力せよ。
----------------------------------

<現代語訳>

言葉にするのも畏れ多い天津神国津神の御前に、今年三月十四日を、生命が生き生きと栄える日、活力が満ち足りている吉日と選び定めて、禰宜(神官)が申し上げます。今より(神話時代に)天津神の御命じになられた通りに、天下のまつりごとを行おうとして、皇族、大臣貴族、藩主、そのほか百官の役人たちを召しだして、この神棚の御前にお誓い申し上げ奉りますのは、このところ、悪しきものどもが、あちらこちらに現れては荒れ狂い、天下は騒ぎに騒ぎ、人心も穏やかではありません。それゆえに、天下の国民の力をあわせ、心をひとつにして、天皇の御政治をお助け申し上げ、お仕え申し上げさせてくださいませと、御祈願を申し上げます。
 ご祈願の捧げものの品々を、広い山のように置き高く盛り上げて奉献いたす様を、ごらんいただきまして、天下の万民をご統治くださり、愛育していただき、谷々の蝦蟇


が連なり渡る果て、山々の上に湧いては降りる白雲が、はるか向こうまで伏して流れる果てまで、反逆者や敵対者の存在をお許しになられず、歴代天皇、ご先祖の諸霊のお恵みお蔭をこうむり、限りなくお仕え申し上げる人共による、今日のこの神前誓約に違反する者がいましたならば、天津神国津神によってたちまちに神罰をいただくことになると、皇祖皇宗の御前に、誓いの吉事のお言葉をおっしゃった次第であることを申し上げます。

一、広く会議を開き、あらゆることについて公の議論の場で決定すべし。
一、上の者も下の者も互いに一致協力して、国家秩序を盛んにすべし。
一、役人・軍人から庶民にいたるまで、だれもがその志をまっとうし、途中であきらめたり怠けたりしないよう計るべし。
一、過去のあやまった風習や弊害をやめ、なにごとも天地の道理にのっとるべし。
一、新しい智恵や知識を世界じゅうに求め、大いに天皇国家をふるいたたせるべし。

 我が国は、いまだかつてない変革を成そうとし、朕(ちん)みずから身をもって国民に率先して、天地神明に誓い、大いにこのような国是を定め、万民保全の道に立とうとしております。国民もまた、この趣旨にもとづいて、心をひとつにして努力しなさい。


<解説>

「五箇条の御誓文」の本旨は、「御誓文」=「お誓い申し上げる文」であり、「神にお誓い申し上げた」のである。
 この「御誓文」について、社会科・日本史の教科書やその他の資料でも、「国是誓約ノ御祭文」という「前文」について、まったく触れていないものがほとんどである。五箇条のそれぞれが、大変に重要な条文であることはもちろんだが、本来なら、それを明治陛下が、御神前に奏上あそばされたという形とその意義を、きちんと紹介すべきではなかろうか。
 まず「神(皇祖皇宗)ありき」なのである。ご自分のご先祖の神々に「誓約」した条文なのだから、この五箇条にこめられた明治陛下の叡慮は、いかばかりであっただろうか。

この「神前の誓い」をぬかしての、「五箇条の御誓文」の紹介は、いわば不完全版であり、このたびアップしたこの「前文付き五箇条の御誓文」を「完全版」とした理由は、上のごとしである。






https://www.youtube.com/watch?v=dFqcqscdFNs











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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ブログ教えてくれて
ありがとうございます!
5日間お世話になりました( •̀ .̫ •́ )!
佐藤
2014/09/05 19:11


心地良いブログで好きになったんです♪

嫌な事ばかり続いている私にとって、あきちゃんさんのブログはオアシスですo(^∀^*)o

カラカラだったのに、潤いを沢山くれましたから!



それに沼からの浮上の足がかりをもらえた気がします。どれだけ感謝の言葉を並べてみても足りないですよ。



色々ありすぎてもうこの先抜け出せないと思っていたんですけど言葉で傷ついた心を癒してくれるのは、優しい言葉なのかもしれないですね…(^∀^)



このコメントが目に止まったら少し話を聞いてもらえないでしょうか?



maki2.co@i.softbank.jp(@は小文字にしてください)



驚かせていると思うんですがあきちゃんさんに聞いてほしいです

けれど嫌だったり迷惑でしたら削除して下さいね。
ファンになりました!ヾ(≧∇≦)ゞ
2015/07/16 02:00

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